私共エクゼクティブサーチの仕事の醍醐味は、何と言っても、「素晴らしい人物」に会える喜びである。ポジションや社会的立場を問わず、素晴らしい人物には、人を惹きつけずには置かない「魅力」がある。その「魅力」の源泉を辿ってみると、ある専門性に根差した「常識に捉われない自分の価値観」を持っていらっしゃるものだ。その反面、一見それと対極をなすような、「自分の矮小さを認める力」というものとのバランスが「魅力」を形成する意外に重要なファクターではないだろうか、と最近感ずる様になった。言わば、自分をある方向性に向かわせる際の「鞭」と「たずな」の車の両輪の関係といったら良いのだろうか?矮小性の認識は、単に謙虚であるという表現では表現し切れない。それは、大きな思想や宗教観の中での自己の矮小性、高い人格や慈悲の前での自己の矮小性、優れた経営者や政治家の実践の前での自己の矮小性、様々なニュアンスが入っている。「何か大いなるものの前で、頭(こうべ)を垂れている図」である。この両極を持つと、考え方にダイナミズムが生まれる。逆にこの発想を持ち得ないと、何と言うか「運」が向いてこないのである。不思議な事なのだが、そうなのである。
12年滞在したオフィスを最近移転した。そこに居られた掃除のおじさん、おばさんとは5年間ほどのお付合いであったが、最後まで大変お世話になった。どうすれば人が助かるのかをいつも考えていて、陰ながら心憎い気働きと、それを行動にして見せてくれた。ビルの人々をよく見ていて、その観察眼は一目を置くべきものだった。煙草を吸いに一階に降りる機会の多かった小職には、彼らの動きや言動をつぶさに見る事が出来たのである。「喫煙」もたまには役立つものだ・・・。清掃員の休憩室が無く、作業中にも口に含ませられるものを・・・と思い、「榮太郎ののど飴」のセットを引越し前日に差し上げた。「寂しくなるよねえ・・・」と漏らされていた。改めて考えてみると、「目の前の小さき者の中にこそ神が存在し、我々を試しておられる」という意味のカトリックの教え通り、彼らが「神が降臨」した「大いなる」化身であったのかも知れない。
極端な例だったが、この「自己の矮小性」はなかなか気付きにくいし、認めづらい。何か「大いなるもの」と比べれば、自分は何と矮小な存在か、ということなので、スポーツのプロの美技をみたり、大自然の驚異に出会ったり、世界の最貧民地区で献身的に働く人々に会ったり、という様な強い刺激にさらされないと、「大いなるもの」の認識は得にくい。現代はテレビや映画やインターネットという簡便な道具があり、ヴァーチャルな体験でさも判った様な気分になる事は幾らでも出来る。「刺激」に鈍感になっているのである。ましてや自然環境、生活のインフラや経済力、技術力、どれを取っても世界でも有数の幸福な恵まれた国だが、多くの日本人がその有難味を忘れつつある様だ。最近は、先達が築いてくれたその「幸運」を当然の「権利」として主張し、自分自身が何より大切で、社会も他人もそのことを認めて自分の希望を叶えるべきだ、と信じている子供や大人が珍しくない、とも聞く。就活の場面では、まだ社会経験の乏しい若者が、自分の長所を恥じらいもせず滔々と述べる。これを見せられるのはとても恥ずかしいものだ。やらせる方もやらせる方かと思うが、「羞恥心」がいつの間にか消え失せてしまっている。また一方で、「他人からどう見られるか」にばかり腐心していると、等身大の自分というものを見失ってしまい、自分本来の良さを認められず、その反動として「自分の小ささ」を認めづらくなるのである。人間とは複雑だ。ある作家が、教養とは、「自分を幸福と感ずる事が出来る能力」である・・・と言っていた。この歳になって本当にそうだと思う。
「自分の小ささを認める力」は、広い世間の中で自己を客観的に位置づける力である。従って、魅力ある人は、自分の欠点や醜態やエゴや失敗体験や苦労話を面白おかしく、淡々と人に聞かせる事が出来るものだ。自分の成功体験も失敗体験も、世間のあるいは歴史上のものと比べれば、どれ程のものでも無い・・・という認識がそうさせるのだろう。あるいはまた、人の評価というものは、究極正確に出来るものではなく、どの様な評価を受けても、自分の価値観を確立しスタイルに合った生き方をするしかない・・・という「積極的な諦観」がある。先日お世話した現職のトップも、クライアントとの面談の席上で、ご自身の強みは一切語らず、経営者としての失敗談を淡々と独特の臨場感を持って面白おかしく話された。その静かな迫力にクライアントのトップも痛く感銘を受け、結果採用が決定したというケースがある。自分の信念やスタイルの確立と、それでも「大いなるもの」に出会った時には素直に頭(こうべ)を垂れる・・・この両輪がその人の「魅力」を形成する。ただ、良いものを見抜く力が無いと、出会ったことにも気付かない。こうはなりたくないものだ。それでは一体、この「物を見る眼」というものは、何で培われるのだろうか?一つは「血の通った(身を挺した)実体験」を積み重ねること、これは間違いが無さそうである。しかし限られた時間で学ばざるを得ない事を考えると、物事はそう単純では無い。何故なら、相応しい時期にその人にとって「大いなるもの」に出会えるとは限らず、学びや成長には必ず「タイミングが必要」だからだ。以前も中国の古語「卒啄(そったく)」の話を出した事があるが、「すべての物事には必ず適切なタイミング」がある、と言う。
という事は、適切なタイミングで、それを補う有効な手段がないと人はなかなか成長出来ないし、魅力も形成出来ないという事になる。では、「補う有効な手段は何かないのか?」・・・それがあるのである。・・・「読書」である。なーんだ、と言うなかれ!自分を矮小なものとはっきり想像し、認識出来る「精神的な訓練の場」が「読書」である。「読書」には、精神形成やものの考え方の訓練に、他の媒体からは得られぬ絶大な効果があるという事が最近証明されつつある。何故なら、己の頭の中で「文字からある考えやコンセプトに展開」出来れば、それは図表や映像になって頭脳に蓄積され、それが昇華して「知識」が「知恵」に変換される。このプロセスを後押しするのが「散歩」らしい。テレビや映画・ビデオ、漫画などは最初から図表や映像や音声に展開されてしまっているので、考えるプロセスを経る必要がなく、「受け身一辺倒」になってしまうからだ。これは「読書」をしなくなった現代、幾ら繰り返しても足りない程、重要なことであると思う。「読書」といっても、ノウハウ本やビジネス書を読んで「読書」をした気になっている人が多い。基本は「古典」であり、信頼できる作家の一連の書物を読破してゆくことだ。そこには古今東西の「人間」が描かれている。善悪の狭間で様々な悲喜こもごもが繰り返されて来た「人間の複雑性」を深く理解する事が、魅力ある人物になる近道である。
最近、「レ・ミゼラブル」や「アンナ・カレーニナ」の映画版が上映され人気を博している。残念ながら、特に若い世代に原作を書物で読んでいる方々が激減している様だ。インターネットをサーフィンしたり、Facebookで友達と浅く広く繋がっても、残念ながら、本来の友情も愛情も育つ事はなく、知恵も知識も人格も形成されないと私は思う。この「考えるプロセスを経ない弊害」はかなり深刻である。ヴァーチャルな「受け身」体験で判った様な顔をして、リスクを取らず不平ばかりいっている日本人が多くなった。同時に、平易な日本語で複雑なニュアンスを操れる日本人が本当に少なくなった。「優れた言語能力」は実は大人の魅力の源泉である。行間から想像する力を育む事で、実は「有効な経験」に匹敵する補完が出来るのである。最近の日本のテレビやマスコミの水準の低さ、矜持の無さ、グローバル感覚の欠如は如何なものか、と思ってしまう。
魅力ある人はやはり言語を操るのが巧みである。これは反論しにくいだろう。日本人が物事を深く考え抜くのに使うのが、「日本語」である。母国語で深く考えられなければ、他の国の言語で考えられる道理がない。グローバル人材とは、まずもって、母国語が深く操れる人物なのだ。グローバルで起こっている事象の複雑性を理解し、その上で自国の利益の為に交渉する力を持っていなければならない。従って、「魅力ある」人かどの人物になりたければ・・・、まず「実体験」と「読書」によりひとかどの教養とコミュニケーション能力を身に付け、しかる後、「常識に捉われぬ自分の価値観」を持ち、「自分の小ささを認める」観点を手に入れる・・・という順序となる。この「黄金の手順」だが、昔は何らかの形で習ったものだが、今、何故誰も言わなくなったのだろうか?少なくも国際舞台に出て国の利害に関わる日本人は、すべからくその様なスキルを持ち、魅力的でなければならないと、私は思っている。英語よりもまず日本語の熟達なのだ。地に足のついた自分の言葉で、紙を読まずスピーチして、利害の対立した人々にも、「あいつは人かどの人物である。」と思わる事が出来なければ、国益の絡む交渉の場に立つ事は難しい。ひょっとすると、今や日本は外交最貧国であり、国力の低下はまず言語力の低下から来るのかも知れない。そういえば「人かどの政治家」と再評価されている、イギリスの元サッチャー首相が今週逝去された・・・。
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