ある大物女性経営者をお世話し、その後の大車輪のご活躍をみて、少し真剣に「女性の経営進出」について考える様になった。グローバル人材とか、グローバル経営が叫ばれて既に久しいが、閉塞感のある多くの日本の大企業や中堅企業にとって、日本人女性の世界での高いプレゼンス、言語力、外人の中でも物おじしない姿勢、生来の真面目さと環境問題への関心などを冷静に考慮すると、横並び感が強くリーダーシップに欠ける日本人男性よりも、グローバルに活躍され訓練を受けた日本人女性のグローバル人材を経営幹部に登用することが、日本企業のグローバル化の第一ステージを推し進める原動力になるのではないか・・・と私は考え始めている。しかるに、女性経営者の比率は海外に比べても圧倒的に日本では低く、女性のベンチャー経営者を含めても多5%未満かと思う。ジェンダーに拘る訳では無いが、この比率が如実に日本社会における難しさを物語っている。男女機会均等法が施行されてから長い期間が経過し、女性の経営幹部に登用する機会がかなり増えているとは言え、やはり女性経営者を誕生させにくい、日本の土壌、あるいは男性側と女性側の事情があるのだろう。これらの事情を少し深堀して考えてみたい。
日本人の男性側としては明らかに拒んでいる人が多い様に思う。女性の上司を持つ、という事に対する抵抗は思いの外強い。それを何となく許す風土がまだ残ってしまっている。それに対し欧米ではそれを許さない文化的背景がある。20年程前のことになるが、小職が前職の米国駐在時代に生涯初めての女性上司と仕事を共にした経験がある。年頃は44~5歳、ブロンズの素晴らしい美人で包容力と教養とリーダーシップがあり、スピーチが上手で他部署の男性管理職からもいろいろ相談を持ちかけられる人間の広さも持っていらした。50cm程まで接近して話す機会が多く、ブルーアイズや金髪の産毛に当時の私はどきまぎしたものである。(笑)欧米社会では、女性をさりげなくサポートする騎士道精神があり、女性管理職が男性の上に立っていても何とも言えないスマート感と自然さがあって、全く違和感は無かった。内実はレディファーストや、騎士道精神、あるいは欧米社会の想像以上に厳格な上下関係が、男女差別などを許さない風土を創っているのかも知れない。
それともう一つ、職責、能力、教養、人間性などに対する「フェア」な評価を何よりも尊ぶ精神があり、ジェンダーは関係がないのである。米国人ほど、「フェア」に対する拘りがある人種もないと思う。彼らを窮地に追い込む為には、「アンフェアだ!」と根拠を持って迫ることなのである。ソフトウェア開発工場だったので、人数も多くリストラも必然であった。その時の彼女は冷酷ではあったが、全員の前で今回の残念なリストラの経緯の説明と、去ってゆく人々に対する配慮に満ちたスピーチには秀悦だった。堂々としていて、人のプライドや心の機微を刺激し、去ってゆく人々の行く末に思いを馳せる。守ろうと努力したが力及ばず申し訳ない・・・という気持ちをストレートに表し、厳しいながらも感動的なスピーチだった。なるほど、ここには男女には関係なく「リーダーシップ」が存在するのだ・・・というのが当時の実感である。
力量に対する「フェア」な評価、「リーダーシップ」の尊さに対する合意、この2点が、日本社会との大きな違いかも知れない。これらに重きを置くので、ジェンダーは関係無いのである。一時「リーダーシップ論」が日本でも盛んになった事があるが、本当のリーダーというものは実は極く少数で、えせリーダーが跋扈しているのが今の日本の現状である。政治、ビジネス、アカデミアすべてで言える事である。リーダーとは、「人を感動させ、動かすことの出来る人」である。経営者は「利害が相反する幾つもの問題を同時に」解決してゆかねばならない役職である。リーダーの特徴は、利害の反する集団からも、不思議とある一定の評価を得ている事である。それが外交的危機を打開し、会社存亡の危機を救い、有事には身を投って守るべきものを守ってゆくのではないか?ノブレス・オブリージュと言うのであろうか。言うは易しだが・・・。
もう一つ、気になっている事がある。それは、フェアさと同類のことではあるが、「客観的に事実を直視して、絶え間ない改善を加えてゆく」姿勢である。男性側には「物言わぬ嫉妬心」という強烈なサイレント・マジョリティがあり、これは陰湿で根強いし、時にトラップを仕掛ける強者も存在するので、女性は気をつけられた方が良い。しかし男性側は幼少時から何かと比べられて育ち、力や優秀さには「上には上がある」という事を良きにつけ悪しきにつけ、潜在的に熟知させられている。従って、客観的事実や実績を持ち迫られると弱いのである。従って、事実や力を提示されると、実績や実力や人間力で自分が劣っているという自己認識は早く、陰で文句はいうものの黙って去ってゆく傾向がある。これは動物の世界でも同様なのが興味深い。
気になっているのは、女性側の方である。「客観的事実を直視しにくい傾向」と、「創意工夫と絶え間ない改善を加えて新しいものを構築してゆく姿勢」を持つ方々が比較的少ない様に思う。これは小職の思い込みに過ぎないかも知れない。しかし、私はその傾向の有無は女性にとって「経営者への道」のクリティカル・パスではないかと密かに思っている。特にあるレベルのスキルから更に上位のレベルへ研鑽しスキルアップしてゆく、という概念や情熱が希薄で、例えば一流の技術者や「道の探求者」は男性であるケースが多い。特にプライドが必要以上に高い女性達は、一般的には「ダメだし」される事に慣れていない。これが上達のネックとなる。また、華のある女性がある程度の地位につくと、その地位につく女性の数が少ない事もあって、取り巻きの男性陣からマドンナとして崇められる傾向がある。これが大変心地良いものらしいのである。実はこれは女性にとってまさに「悪の誘惑」である。おだてあげるのは、嫉妬心の強い男性陣の少し陰険な戦略かもしれない。これにかまけて、客観的事実を見ようとせず、結果的に自己の成長への機会を失ってしまう方々は意外に多いというのが私の実感である。これを私は「マドンナ症候群」と呼んでいる。
最後にもう一つ気になるのは、他人の評価を気にし過ぎる傾向である。または「自分の努力を、正当に認めてくれない」という必要以上の拘りである。男性の場合もある程度はあるものの、自分の努力も苦労も、世の中の大変な苦労や努力をしている人々と比べれば大したことは無い、という客観的認識がある様に思う。反論する女性も多くいらっしゃるだろう。しかし私の人生の中で、「貴女も努力しているかもしれないが、それは世間の一流水準から比べると大した事はない」といういう意味の事を言って、まさに「地雷を踏んで」しまった事は何度かある。(笑)これが女性にとって、「逆鱗に触れる」事になってしまうのは何故なのだろうか?と自分の短慮を反省しつつ考えてしまうことがある。所詮、個人などは大したことはなく、人に支えられ育てられ、かろうじて生きさらばえている筈である。自分が「どれ程の者なのか?」という観点は重要である。ただその客観性は有事に思い切った決断を妨げる要素にもなり得るのが難しいところではある。会社は公器であり、経営者は公人であるので私憤を交えるべきではない事は勿論であるが、経営者も人間である。しかし、前述の傾向が女性経営幹部にもやはり色濃く残っているとすると問題である。ただし、本当に評価すべきポイントを捉えて上手く評価した時に、発奮して頑張る要素は、女性の方が男性よりも感度が高い部分のある様に思う。人知れぬ努力をして献身している女性に向かって、「いつも苦労をかけるね」という一言で粘り強く良い仕事をされるケースも多いと聞く。やはりトレード・オフなのだろうか?
今回のブログはダブー領域に敢えて踏み込む覚悟で書いているのだが、多くの女性陣を敵に廻してしまっただろう。しかしながら、スタントンチェイスは全世界に75オフィスあり、多くの女性のパートナーが海外に存在するのだが、女性幹部には少なくとも前述の傾向は薄い様な気がする。今後女性経営者を積極的にお世話し、旧態然とした日本の大企業のカルチャーをどんどん変革していってもらいたい。イギリスの「鉄の女」サッチャーもプライベートの時は色々大変だった様だ。しかし、少なくも公人としてのサッチャーは立派だった。女性経営者を目指す方々は、社会の公器になり得る人材であり、また世の中の研鑽を積んでいる多くの男性経営者と伍してゆかねばならない。誤解してほしくないのは、男の様になれ!などとは一言も言っていない点である。女性の強みや特性を活かし、男性に付け入る余地を与えないで頂きたいという事である。私の今回の指摘点は少し過激かも知れないが、公人として男女を超えた「大きな人間性」まで自己を高められる為には一里塚の様な気がする。今や日本の女性の評価はグローバルでは非常に高く、是非、「明日の日本を創る」大きな架け橋になって頂きたいと願っている。
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