60歳の定年が伸びるかどうかは別としても、平均寿命まで考えると定年から25年もの長い年月がある。昔とは異なり体力も気力も断然若い年寄りが多くなるので、この長い年月をどう過ごすのだろうか?という素朴な疑問が私にとっても現実味を帯びてきた。何故この様な事を書いているかというと、60歳までの「一毛作」、それ以降の「元気な二毛作」に分けて考えてゆくと、二毛作にどういう仕事を持ち、何に貢献できるか?かは、多くの人々にとって従来より増して重要なテーマになる様な気がするからである。私見だが、今後「75歳ぐらいまで元気で自立して働き続ける」時代が到来する予感がする。
自立するという事は、気力、体力の維持は勿論必要だが、経済的、社会的にも自立する必要がある。年金生活が保障出来ない今、50台の世代は、新しい働き方の典型的なモデルを、試行錯誤の中で作り上げてゆく責任がある様な気がする。特に気負っている訳ではないが、今既に60台、70台の人々に期待しても現役の年金の受給者でもあり、「新しい働き方」といっても難しい面があるだろう。やはり「相応の準備期間を経て」良い事例を積み上げて「準備して」初めて、ある「世代感」が形成されるのではないかと思う。そういう意味で50台なのだ。まず経済的な自立を考えると、定年まで大企業に勤めてきた人も役所に勤めていた人も、ごく少数の人々を除き、従来の「天下り」を期待できる時代ではなさそうである。従って、各々がそれぞれの環境下で個人事業主あるいはベンチャーか小企業の立場で、ネットワークを活かして何らかの「世に返す」ような仕事をするチャンスが多くなるのだろう。
それでは「ある準備期間」とはどの様な準備を指すのだろう。
まず第一点として、まだ転職経験が無く定年を迎える日本の企業人の多くは、まず経済的な論議の前に、「精神的な自立」をする必要があると思う。
特に大企業一辺倒のキャリアしか持っていない人々にとっては、如何に恵まれた環境で働いてこれたか・・・について認識不足の面が多い。転職をしたから獲得できるとは限らないが、そのまま社会に出てしまうと「今まであるべきものが無い」というギャップに苦しむに違いないのである。会社のブランドがある、専門性のある部隊や組織がある、あるべき仕組みやインフラがある、人材が揃っている、資金やその他のリソースがAvailableである、都市銀行から借金も出来る、どんな経営状況でも毎月25日には給与が振り込まれている・・・これらは世界の常識から考えると、ごくごく恵まれた環境である。いざとなれば何でも自分でやらなければならない。銀行にも頭を下げる。今まで業者扱いしていた人々もひとたび大企業から離れた途端に、手のひらを返したように態度されるのが普通である。そういう目に合わない方も確かにいらっしゃるが、その方々は取引先に対してもそれなりの労力と信頼を繋ぐ努力を続けていらした方である。それは世の中の多数の大人は認識しているのに、大企業一辺倒で来た者は認識出来ていない人々が多いというのが、私の印象である。
もう一つ、発想の転換が必要かと思うのは、たとえ一時的に「自分の損になる様な事も、自ら進んで出来る様になる必要」があるという点だ。
こういう認識は、実は私自身にこそ必要なのだが、書くのは容易いが行動に移すとなるとそう簡単ではない。今までは企業や個人の損になることを避け、得になる事を率先してやっていれば良かったのである。今後個人に資する度合いが大きくなればなるほど、何故私がこういう目に合わなければならないのか?というケースが必ず出てくるのである。一時的な幸不幸は誰にでも降りかかる。ボランティアやNGOなどの仕事でもそうだ言う。一旦、「種まきをして後日の果実を待つ」発想というか、ある哲学が必要だ。よくよく事態を観察してみると、一時的に損となっても後日相応かそれ以上の見返りがある確率は高いのだが、私を含め皆欲深いので、なかなか承服できない。ただ人生の壮年期に入るとそろそろ人間的にも完成期に近づかなければならないな、とも思う。そういう「出来た」人々の集まりでは、「協業する」価値をよく理解しており、一旦信頼し合えるとその心情的な絆は強く、信頼の伝播は驚くほど速い。独立し、出来れば専門性を持つ者が、必要に応じアメーバの様に連携し合い、仕事やプロジェクトをこなしてゆくのである。
ただ、幸運なのは、自立して働き続けるには絶好な環境(インフラ)が次々に揃って来た事である。何故なら、これからは「互いに良いところを活かして自立した者同士が“協業して”物事を進めてゆく」、という発想が必要だからだ。情報のインフラもIT業界が日本に上陸して約40年間以来初めて、個人が自立的に国内のみならずグローバル市場にもメッセージを自由に配信できる時代が到来した。これは一つの僥倖と言えるのではないだろうか。そういう意味でも、これから壮年に入ってゆく50台は、この好機に恵まれた縁を何らかの形で活かしてゆく責任がある様な気がするのである。
第二点として、日々の「生活者としても自立」する必要があるという事である。
今回の震災経験で電気が無いとどうなるのかは、直近の体験として多くの人々が経験したが、非常時のサバイバル以外にも、日々の生活を自分自身で切り盛りする事の出来る能力が必須項目になりそうである。壮年期に入り、衣食住の世話を一方的に頼る存在が先にいなくなってしまう事も十分考えられる。その際、炊事、洗濯、掃除、その他地域社会とのコミュニケーションを含め、何一つ満足に出来ないでは話にならない訳だ。人に貢献する前に自分の面倒をキチンとみる必要がある。この点、女性陣はすこぶる強く、日々の雑事で頭を働かせ、手足を動かしているし、地域社会とも一定のコミュニケーションがあるので惚けにくい、ということも良く知られている。
第三点として、「経済的な自立」だが、その準備として、トップライン(売上)とボトムライン(損益分岐)の双方の責任を背負う事と、お金の面倒をみること、すなわち、資金を集め、その良い状態をキープする。(キャッシュをコントロールする。)が、自立には必須科目である。
これらの売上、利益、資金そしてそれを実行する人材(自分を含め)の確保は、経済活動をする限り、どの様な単位の企業にとっても常に重要なマターである。ある専門性はあるが、これらの経験が無い人々は一刻も早く経験しておくことが必要である。当たり前のことと思われるかも知れないが、頭で知っていることとやってみて出来る事は天地の開きがある。また、その出来た事を判りやすく人に教える事はもっと難しいのが通例である。
最後に、「歳を重ねるごとにより賢くなってやる!」「そういうクラスを創るんだ!」という覚悟の様なものが必要かと思う。
高齢者に対するリスペクトがこれほどなくなりつつある日本社会は、世界では珍しいのではないだろうか?昔は本当の意味での知恵者がいて、「賢者」という風格を持った気骨あるお年寄りも存在した。考えてみると、ずいぶんといろいろな事を教わったものである。時代も環境も価値観も大きく複雑に変化してきたが、最近のAnti-Agingに対する異様な盛上りに見られる様に、残念ながら歳を取る事(Aging)は何故か一般にネガティブに受け取られる傾向がある「Agingに対する価値と尊厳を取り戻したい」、と考える諸兄は私だけではあるまい。
以前のブログでも紹介したが、当時62歳のカトリーヌ・ドヌーブという女優がルイ・ヴィトンのイメージキャラクターに起用された事がある。霧のかかる駅のベンチに腰掛け、足を組んで髪を掻き揚げている図なのだが、成程、マダムというクラスがフランスには存在するのだな、と感心した。何より壮絶な色気に圧倒された事をよく覚えている。大人の女性の毅然とした格というか、紆余曲折のある人生だったが常に自立して、体でぶつかって生きてきた・・・なんか文句ありますか?という潔い態度である。若くして必要以上に痩せた貧弱な体にブランドバックを引っさげ、ハイヒールを履いた歩き姿が、尻を突き出したプードルに似たどこかの国の若いギャルに、果たして魅力を感ずる事が出来るのだろうか?
私には判らないことの一つである。
最近のコメント