なかなか一言で言うのは難しいのだが・・・
「自分の人生で起きて来た、あるいは今起きている事の幸不幸、運不運、それらは連綿とした人類の歴史では様々の人々が既に経験済みの事であり、なにも珍しい事では無い」、という自覚と言ったらいいのだろうか?そんなこと当たり前ではないか!と叱られそうであるが、その認識をするのが若い頃の自分は特に下手であった。50歳を過ぎる頃になって、ようやくその様な事が判る、あるいは想像できる様になって来た。お恥ずかしい限りであるが、そうなのである。自分で「こうと、思い込んだ」大きな失敗も大きな成功も、実は何程の事もないのだ、ということ、所謂、自意識過剰の自分というのを、「一歩離れた自分が客観的に観察する」ことが不得手であった訳だ。
何かと言うとゴルフの話になり恐縮だが、自分のスイングをビデオで撮ってみると、「なんとっ・・・・」こんな格好でスイングしていたのか、とショックを受けることがある。ほとんどのスポーツも実は普段の仕事ぶりも、自分でその姿を見る訳にはゆかない。もともと人間は自分の行動を見ることが出来ないのである。当たり前過ぎるほど当たり前の話である。従って、どの様な格好をしてスポーツなり仕事なりをしているのか?は意外に判らない。客観的に自分を観察すること自体、訓練をしないとなかなか難しい、という面白い性格を持っている。何故、この様な話をするかと言うと、自分を卑下する訳でも無く、自信過剰になる訳でも無く、客観的にニュートラルに自分を観察する事が出来ないと、結果的に様々なストレスを抱えながら生きる、というハンデを背負うのではないか、と思うからである。自分の場合には、自身の問題で終わらず、必ずや周囲にも迷惑をかけることになる。
これに関連して、不思議だなと思う事がある。「人は何千年経っても精神性の進歩が無い」、という事だ。その人本人にとっては皆、一回性の人生の中で、何事も初体験を繰り返し、積み重ねて歳を取ってゆく。人類は、歴史上で文明も文化も精神性もかなりのものを体験し、獲得し蓄積して来ている筈である。にも拘わらず、もしや「文明」は発達しても「文化」や「精神性」や「徳」などというものは、2000年前よりもむしろ退歩しているのではないだろうか?具体的な事例は最近あちらこちらで見受けられる。これは不思議な事だ。その本人にとっては初体験の繰り返しなので、若いうちは仕方無いにしても、ある年代になれば、人生からまたは歴史から学ぶ部分がもう少しあっても良いのではないか、と思う。
これは、先に書いた事とも関連する。自分に起こった出来事を内省し、世間で起こっている様々な出来事との兼ね合いの中で客観視し、「知恵」として蓄積することがなかなか出来ないのである。問題は何故それが出来にくいのか?ということだ。私見だが、一つには、ヴァーチャルな体験が多く「生体験」が激減していること。これに関しては過去のブログで書いたので繰り返さない。もう一つには、現代社会では「与えられる」情報が多すぎること、またその情報過多の中で上手く有効な「情報」を選択する、あるいはその情報群の中から「自分の頭の中で加工して知恵に変換する」プロセスを習慣化するのが意外に難しいことに関連しているのではないか、と疑っている。
ずいぶんと難しい話題になってしまった・・・(笑)、
私の個人的な対処法としては、意識的に「想像力を働かせる」という事である。漫然と生きているだけではどうしても足りない。すぐ他人と比較したり、世間を甘くみたり、でこぼこになってしまう。やはり、少し努力して「想像力を働かせる。」ことをしないと、いつもどちらかに偏ってしまい、ニュートラルなスタンスで居られない。特に我々エグゼクティブ・サーチの仕事は、様々な人々の人生と向き合う為、ニュートラルなスタンスを保つことが重要なのだ。
非常にレベルの低い話だが、電車の中で物を食べたり飲んだりしている人は、電車が大揺れしたり、人に押し込まれたりした時に、他人に迷惑が掛るのではないか、という事が想像できない、最近よく公共の場でくしゃみや咳をするのにマスクもせず、風邪を撒き散らしている人をよく見かけるのだが、これも低次元での想像力の欠如である。少しレベルを上げると、例えば、顧客の接待の席上は「想像力を働かせる」絶好の機会である。少しずつ相手の「いい気分」を積み重ねて行く。まず本人の趣味、嗜好を予め調べておく。例えば、店の選択(エグゼクティブの方々は「料亭」の接待に慣れ過ぎているので、普段なかなか行けない様な店を探しておく、など)、そして出迎え、これは重要である。当然ながら少し前に店につき、店のマスターに「今日は大事な接待である。」旨を告げる。事前に通される席をチェックしておく。万事OKでお迎えするのである。料理や酒類の選択、お土産の選択(ご本人の家族構成を調べ、基本的には奥様の好みのものを用意しておくのが無難である。)最後の顧客のお送りの仕方などなど・・・。「いい気分」を積み重ねてゆくことで、接待というものは実は10倍も20倍もの価値のあるものに変身する。「ああ、自分の事をこれほどに気にかけてくれていたんだなぁ、」という事を後からしみじみと気付かせるのである。これらは、実は「想像力を働かせる」訓練なのだ。ディズニーランドのキャストの基本も、顧客に対し「少しいい気分」を徹底的に積み重ねてゆくことだそうである。「何故だろう、ああ、気分が良かった。またリピートしよう!」という事に繋がる訳である。
「想像力を働かせる」訓練だが、「実体験」や「生の体験」は非常に重要だが、それを強力に補い、また深く考える習慣を養うのが、実は「読書」である。これを「追従体験」と呼ぶ。古典、あるまとまった歴史書などは格好の材料である。週刊紙や情報誌あるいは新聞も悪くはないが、これは「情報」というより速く動く「データ」に近い。反芻作用が欠落するケースが多い。塩野七生著「ローマ人の歴史」などを読んでいると、あの15巻の大作に描かれているいる悲喜こもごも、人間模様はまさに現代でそのまま当てはまる。成程、遥か昔の社会でもこの様な事があったか、これを反芻する、その主人公になった自分を想像する。これが歴史書、歴史小説の醍醐味である。
さて、ここで気を付けなければならないポイントがある。それは「自分の頭で考えながら読む」習慣である。もう少し詳しく言うと、「文字から自分の頭の中である映像やコンセプトに展開できる」事が重要なのだそうである。そこに「考える」というプロセスが介入する。従って、「与えられてしまう」大量でスピードの速い画像データ、すなわちテレビ、漫画、インターネットをいくら眺めていても、すでに映像情報になってしまっているので、頭の中での変換プロセスをスキップしている事が、知恵を育むことを邪魔してしまっている、という事らしいのだ。「思考の整理学」の外山滋比古氏や「バカの壁」の養老猛氏も同じ様な事を言っておられる。従って、小職を含め、まとまった文字を読まなくなってきた現代人の知恵レベルが低くなって来ているのは、非常に納得できる現象である。
つまるところ、もっと「読書」をせよ、という事なのだが、TwitterやFacebookを駆使すればグローバルに瞬時に情報共有でき、ビジネスのスピードは日々増進し情報戦争の様相を呈している。しかしながら、機に及んで人類の「叡智」の結集が必要な時、果たして何人の賢者が存在するかは甚だ心もとない。実は、現代社会は「心ある賢者」を育む(はぐくむ)受難の時代とも言えるのではないか?と密かに考えている。
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