新藤兼人監督の映画だったと思うが、女優の自然体で歩くシーンを撮る為に、何日も何日も京都の町をベテラン女優をただただ歩かせて、体に沁み込ませ頭がからっぽになったところを待って、「それだよっ」と言って撮影した、というエピソードを聞いたことがある。からだの動きが動員されるものは、ライブ感覚を養いやすい。従って、その技術なりスキルなり知恵などは簡単に忘れたりしないし、身に付き易い。本来、教育とか人の育成というものは、ライブ感覚の薄いものは身につかないと言う。
「情報」を得るというものも、同じことである。本当の情報というものは、「金銭」あるいは同等の代償を払い、「労力による肉体的な汗、または戦いによって血を流すこと」によってしかなかなか得られないものである。どんなにITが進み、便利さが向上してもそれは変わらない。観劇やコンサートなども同様で、実際にライブで見るのとテレビやビデオで見るのとでは全く印象が異なる。ゴルフ好きの小職は、初めて実際のトーナメントでプロのショットを見て、まずその打球音に驚いたものである。「バキッ」と濁った破裂音に「ドスン」という振動が伴うのである。またボールをよくよく見ていないと、見失ってしまう。「シュッ」という鋭い音を立てて、瞬時にボールが小さくなってゆくので、どこに飛んだか判らないのである。
さて、我々の仕事も非常に属人的な部類に入るのだが、顧客からどんな人を探すのかを聞く、人を探索する、人のキャリアコンサルティングをする、人をお世話する、のにもライブ感覚は欠かせない。人はなかなか本音を語らず、お互い理解不足のまま、ご縁があったり無かったりするのである。これは考えてみると大変怖い事でもある。「その人の見方そのものが、紛れもなくその人を示している。」と云われるように、本来人は自分の見たい様にしか、人を見ることが出来ないのかも知れない。しかしながら、出来るだけ人に接近し、上からも横からも斜めからも、その人を観察する。匂いを嗅ぐ、少し舐めてみる。(笑)それは冗談だが・・・。その中で思わぬ本音が漏れ聞こえるタイミングがあるのだ。これは小職の経験では、日頃の喧噪から一時逃れた夕刻に、一緒に軽く飲んでいるシーンに訪れることが多い様な気がする。これが「ライブ」である。特に経営幹部は9 to 5の通常時間には仮面を被っている事が多い。何でも接待漬けにしてビジネスを成り立たせようとする営業スタイルなのね!と勘違いされてしまいそうであるが、自分の中ではそれとは対極にある。本当の情報というものは、対クライアントでも対候補者でも、それなりに労力、時間、金、心配りの代償として、しかもプライベートになった時、少しだけ供与されるものなのだ。
家庭の調理現場を知らず、出来あいのレトルトやコンビニ食品で育ち、家族が集まる格好のライブである食卓を囲む事も少なく、テレビやDVDの与えられた環境で、全世界の大自然やイベントを楽しんで判った気分になっている。外に出て遊ぶ中で、けんかをしたり傷ついたり、痛い目にあって帰ってくる経験が少なく、親からはそんな危険な事はやめなさい、と言われ続けて「守られ過ぎて」子供時代を過ごす。安定した大企業のルーティンワークで「ワークライフ・バランス」や「テレワーク」などという文化に親しみ、わざわざ危険で不便で言語も通じない海外などには決して出て行かない。25日には自分の一か月のパフォーマンスの評価を問わず一定の給料が振り込まれる。これでは、非常に良い資質を持っている若者でも腐ってしまうのである。テレワークが盛んであるが、人と接せず、ぶつかりあい、議論し、その関係に悩みぬかずに、どうやってビジネスをするのか、どうやって人が育つのか、私は判らないのである。
私共の会社は全世界45カ国からなっており、世界会議の晩餐の席上では、よくスパウス同伴で席につくのである。男女交互に座って行く。そういう席でのマナーは、見知らぬ同士があるひと時、如何に和やかで出来れば楽しい会話を、節度を持って出来るか?なのだ。英語の上手下手ではないのである。興味と尊敬の念を持って互いの話に耳を傾け、それに「ライブ」で、喜怒哀楽を自然体で表現するのである。そういうマナーがあるなしで、大袈裟ではあるがこの人間と今後も付き合ってゆけるだろうか・・・までも判断する。
しかしこれらは、一朝一夕にはなかなか出来ないものである。家庭環境での食事での会話、普段の仕事仲間での付き合い、顧客との接待などの積み重ねなのだ。最近、「孤食」という奇妙な言葉を聞いた。ランチタイムに会社の同僚などと一緒に食べるのが苦痛で、一人になれるところでそっとランチを済ませるという。人との関係性を保てないのだそうである。「食育」とは、本来、体だけではなく精神を育てるという意味を指している筈だ。なにか大人になりきれない大人の荒涼とした心像風景を見る様である。何に興味を持ってやっているかというと、漫画を読むこと、ゲームをすることなのだ。電車の中を見よ!そういう人々で溢れている。
やはり、日本はゆっくりと沈んでゆくしかないのだろうか?と悲観的になってしまいそうであるが、多分、「仮想の出来事で判った気になっている点」ではその本質は酷似している。その処方箋の第一として、何事も体験してみる。失敗から学ぶなど、やはり「ライブ」や「生」の感覚への回帰は、スキルや技術向上のみならず、人間形成や人格形成にも思った以上に重要なのかもしれない・・・と最近痛感している。
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