先日、一見不幸な境遇がその人を鍛え、ある期間を経ると人格といえる度量に育つことがある・・・という事を、「まさにこのことだな・・・」という事例に出会って感激した。「禍福」という言葉があり、「福禍」とは言わないところが面白い。禍い転じて福となす訳である。
さて、恥ずかしながら、五十歳を超えて小さいながらも経営をやってみて、つくづく大切だな・・・と気付いたことがある。それは、「トレードオフ」という概念である。二律背反という意味もあるが、むしろ表裏一体という意味に近い。すなわち、「ものごとには両面があり、お互いに補い合って一つのものを形成する」、という概念である。皮肉な事に「心、技、体」が充実している40歳台では実感としてその重要性に気付かなかった。と同時にこの深い理解こそが、リーダーには必須の心構えなのではないか・・・と最近は確信に近くなってきている。
決していい加減に生きろとか、なんでも妥協せよとかという意味ではない。この世の中には理を通して行くと、二律背反な事柄が実に多い事に驚く。一見するとどうにもならない様に見える。しかしながら、一方がもう一方を支えて、物事は成り立っているのだ・・・という考えに至ると、あるべき鞘に納まってくる端緒が掴める場合が多いのである。卑近な例を挙げると、組織の中に所謂「ぼんくら」が存在する。但し、ぼんくらもいないと優秀な人材も目立たないのである。言い方を変えると、ぼんくらがいて初めて優秀な人材の価値が出る。優秀な人材だけでは組織は成り立たないのである。「善」は「悪」の存在をもってはじめて価値となる。気恥しい限りだが、この様な単純な真理が、40歳台の頃は実感として判らなかった。いわゆる嫌な奴だった訳である。
この概念が何故それほどまでに重要なのだろうか?
私見では、「絶対に正しい、間違っている」、あるいは「絶対な幸福とか不幸」とかというものは世の中には存在しない。それぞれにトレードオフがあるものである。また、その中間にも膨大なグレイなエリアが存在し価値観が存在する、という世の中の複雑性を知ることによって、決定的な瞬間に大人としてのバランスの取れた判断が出来るか否か・・・ということなのだと思う。経営者ともなれば、日々、二律背反な事柄に意思決定を下して行かねばならないのである。是非、獲得しておかないと、このグローバル化された世界で危なっかしくてならないではないか。書いていてリスクがあるのは、もしや「著者は精神的な自我がしかるべき時に形成されなかったのか?」という風に思われしまうことである。否定はしないが・・(笑)
実際、今の日本では、少女趣味的な正義感で簡単に人を持ち上げたり、蔑んだりする傾向が強くなっている、というか、「人にはそれぞれに事情がある・・・」ことを理解しない輩が確実に増えている様に思える。日本社会全体が幼稚化している。特に絶対的な権力を握る人々、政治家、官僚、マスコミ、インフラ業者(電気、通信など)などにその傾向が強いのはどういう風に説明すれば良いのだろうか?非常に被害が大きい。グローバル競争に晒されていない、という決定的な共通点が見出せるが、とても海外には出せない人達であり、過渡期に新しい方向性を指し示すのには、最も不向きな人々である。島国で同一民族という特殊性にも大きく影響を受けているのだろうが、殺し合いも辞さない決定的な二律背反を歴史的に潜り抜けて来た人種とも仲良く協業してゆかねばならない時代である。非常に気になる。
世の中には、「最も必要としているポジションに、最も不向きな人々が存在している」ことが実に多いので、我々の様な仕事がなくならない訳ではあるのだが・・・
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