思い立って、55歳を過ぎてロードバイクを始め、58歳で退いた。二年半競技にも参加したが、加齢に抗い若者と競うのはもういいかな、と思ったのである。その後、還暦を迎え、少しずつ体に変化が見え始めた。朝、顔色がない。全力で走ると足がもつれる。直近の事よりも、過去の事を鮮明に覚えている。話しがあらぬ方向に飛んで行って元へ戻れない傾向がある。普通に歩いていると若いハイヒールの女性に追い越される。・・・すべからく老いの兆候である。70歳過ぎまでは現役でと、気合いを入れ直すのだが、これから老いという未体験ゾーンに突入する。若い頃は想像もつかなかったが、これから一体何が起こるのか、実はわくわく感もあるのである。
体力の減退と引き換えに、精神の時熟を感じることもある。白黒だけで無く、灰色という広大で、複雑な領域を理解し許容すること。人生勝てば良い訳では必ずしも無いこと。足してゆくのでは無く、引いてゆく中で本筋が現れやすいこと。自分に合わない人に優しさを示す事が、徳のあるかなり難しい善行であること。個性の違いをそのまま受け入れること。物事を多面的に見て判断すること。己の限界点を見極めること、などである。
これらの学びにはコストがかかっている。実はつい数年前まで、前述の幾つかの気付きとは真逆を考えていた。何事も白黒をつけたがる。勝ち負けに必要以上に拘る。上に足しこむ価値観(上昇志向)に縛られている。自分に合わない人を排除する。個性を活かすよりある方向性に平均化しようとする。物事のトレードオフを理解出来ず多面的に捉えることができない。為せば成ると単純に信じている。お笑い草だが、若さを頼み思い上がっていたのである。
仕事柄、クライアントと候補者双方の具体的な事例に寄り添い、なるほどそういう考え方もあるなぁ、と自分の思い込みを修正して来た。時に他人事の方が良く本質を理解する。(これを岡目八目というが、若い人に何ですかそれ。と笑われた。)自分がこうと思い込んだ事の80%は間違っていた、とある老作家が言っているが、それは本当の事らしい。「人には事を為す適切な時(年齢)がある」という。そういう意味で、壮年期から老年期にかかろうとする時に、この人材関連の仕事についた幸運に感謝しようと思う。
老いについては諸説紛々だが、身近に老人がいて、死に接することが稀になっている現代人には、潔く現実を受け入れにくいのかも知れない。巷はアンチエイジングの大合唱だ。それにしても、凛とした矜恃を持つ佇まいの美しい老人、老いてこその知恵者(老賢者)が極端に少なくなった様に感ずる。
それ無くしてはまずいぞ、という美意識を維持することを「矜恃を持つ」と理解しているが、この意識の問題が大きいのではないか?老いて「心、技、体」が揃って衰える訳ではない。体は確かに衰える。しかし、心、技は精神面の充実と共にむしろ深まってゆく。滅びゆく身体に気を取られ、心、技面の一層の磨きに時間が取れず、時熟の時を逃すとすれば勿体無い話である。見てくれは若いが、中身が空っぽというのは何とも格好が悪い。大自然の摂理に抗うよりも、精神面の充実に向かって努力した方が良いに決まっているのだが・・・
精神面の鍛練とは一体なんだろう?これは議論の分かれるところだ。私見だが、読書と内省、ものを書き発表すること、何かを人に与え続けること。使える道具として皆から使われること。万事始末すること。お蔭様でなんとか生きている事を認識すること。老人の特権を当然のように行使しないこと。何でも自分でやってみる、すなわち精神的経済的に自立していること。市井人として淡々と生きる平凡の非凡を知ること。この様な心構えだろうか?一つ一つ失ってゆく。だが、それには意味がある様な気がする。それが何なのかを、自分を実験台としてこれからじっくり見てやろうと思う。私の好きな作家の言葉である。
「その時初めて人間は判るのだ。歩けることは何と素晴らしいことか、自分で食べ排泄することは何と偉大なことか、更にまた頭がしっかりしていて多少哲学的な事も考えられるというのは、もしかすると一億円の宝くじを当てたのにも匹敵する僥倖なのかもしれない。こういうことは中年以前には決して考えないことだった。」
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