最近「人の匂い」が希薄になった。
勿論、物理的な匂いではない。促成栽培で育った野菜の様な淡泊で匂いの無い人が多くなり、土の匂いの香る,泥臭い人材が少なくなった、という意味だ。これは多分にITなど便利な文明の発達や核家族化に反比例して、人と人が直接触れ合い、悲喜こもごもを共有する、あるいは長年一緒に暮らした老人の死と直面するとか、決定的な失恋をするとか、いわゆる過酷な現実に直面する場面が激減したのと深く関係している様に思える。「不幸」や「不便」が人の育成には必要な肥料である場合は多い。
前回、「人に感動を与えたい」という言葉について、この表現はおかしいという事を書いた。感動は恣意的に与えるものではないからである。多分、感動するという意味も浅薄な感じになっているのかも知れないが、だからこそ、「感動が人を育てる」ことを見直す必要を痛感する。こういう感動によって自分は育てられた、という経験は誰もあるのではなかろうか?リーダーは人を感動させる何かを持っているものである。それを見て、メンバーは結束力を持つ。これはユニバーサルなものである。勿論、「感動」とは正解などは無いあくまで個人的な体験ではあるが、社会の情緒の成熟度を表している様な気がする。人が感動する、感動させられるとか、リーダーシップとは如何なるものか・・・を考えてみたい。
具体的な話しか出来ないので、僭越ながら昔の小職のエピソードを紹介する。
かれこれ25年近く昔のことである。当時私はコンピューター関連の営業の責任者をしていて、一年半越しのビックプロジェクト(顧客を含め、総勢50人を超えるチームだった。)の受注から納入活動に邁進していた。プロジェクト・リーダーである顧客の専務は、頭が切れ心もある大人の風格を持った方で、現場主義で泥臭く、人情味溢れる人物であった。私はその専務から営業の奥儀とはどういうものか?人はどの様に動くものなのかを、そのたびごとに具体的に実地で教わったものである。顧客が業者を育てる、昔は有難いことにそういう事があった。本番を控えトラブルが起こり、プロジェクト・メンバーは総動員で何とか本番に間に合わせるべく昼夜を分かたず奮闘していた。結果、残念なことに、初の全国オンラインシステムは、本番の日時の午前9時には間に合わず、翌日午後1時に遅ればせながらなんとか動き始めた。当然ながら、顧客の受注処理が出来ないとのクレームが相次いだ。専務は役員会で「責任を取る」旨を表明されたが、当時のオーナー社長から強く遺留され、何とか事無きを得た。
さて当時のIT業界では、何かの区切りで「打ち上げ」をしたものである。
文字通り体を張ってそのプロジェクトを支えてくれた専務に、何とか個人的にお礼とお詫びをしたく、我々は専務に何か要望があれば、遠慮なく言って欲しいと申し出た。すると専務は、笑いながら「いろいろ苦労させられました。では遠慮なく・・・わしを川奈に連れて行ってくれ。生涯に一度だけでもやってみたいゴルフ場なんだ。」と言われたのである。当時、ゴルフ接待はある程度一般的なものだったが、川奈ゴルフは日本有数の名門クラブで、隣接する川奈ホテルに宿泊しないとプレイが許されない特別な場所であった。値段もびっくりするほど高価である。通常の接待の予算範囲を超える。しかし何とかその気持ちに報いたく、私と当時の営業本部長で画策し、お互い半額身銭を切って接待しようという段取りとなった。加えて、川奈ホテルの夕食のフレンチがまた高価な為、節約して、伊豆の町に繰り出し海の近くの小料理屋で上手い近海ものの刺身をたらふく食べて、ホテルにチェックインしたものである。しかし、この小料理屋の刺身が、徳島出身の舌の肥えた専務を唸らせるほど上手かったのは嬉しい誤算であった。
さて、一泊してプレイ当日である。屈指の難コースであったが、ゴルフの名手である専務は絶好調で、本当にプレイを楽しんでおられた。この日の天気予報では午後から崩れる危険性あり・・・程度のものだったが、18ホール中12番ホール辺りでぽつりぽつりと始まり、我々の願い空しく、14番ホールでは豪雨となり、15番では暴風雨で台風の様な天気となってしまった。皆、ずぶぬれで、まるで泥んこ遊びである。やむなく15番ホールを終えるか終えないかで、切り上げてクラブハウスに戻ってきた。専務も、名物ホールの15番(昔、尾崎将司というプロがチップインをした有名なホールである。)を終えられず、18ホール完遂も出来ず、内心残念だっただろうと思う。絶好の天候で、絶景を満喫しながらこの名門クラブを回りたかったろうに・・・
冷えた体を風呂で暖め、食堂で一杯やりながら、我々は何か申し訳ない気持ちで一杯だった。「専務、折角のチャンスでしたのに、散々な目にあって本当に申し訳ありません。」と言ったところ、専務は、ニコニコ笑いながら、「いや、天候は下野さんのせいではないよ。いろいろ気を使って頂いているのが分かり感激した。ゴルフも楽しかった。こんな天候だったけれど、だからこそ、生涯忘れ得ぬゴルフが出来た。本当に有難う。」と言ってくれたのである。私は不覚にも涙を堪えるのに必死だった。と同時に自分の浅薄な考えを恥じた。昔はこの様な心あるリーダーがあちこちにいらしたのである。
「感動」を解析するなどは野暮なことではあるが、多分前提となる共有体験が必要なのだろう。一年半の間苦労を共にしてきたこと、危機的な状況での専務の体を張ったリーダーシップ、我々の感謝の気持ち、専務の希望が生涯に一度でよいから「川名ゴルフクラブ」でプレイがしたかったこと、何とかやりくりしやっとセットアップした折角のチャンスが暴風雨で散々な目にあったこと、にも拘わらず専務から予想外にも心ある言葉があったこと・・・、などなど様々な状況が積み重なっている。その土台が無ければこの様な感動は感じられなかったのかも知れない。人が人に感動させられるとか、感動するとは一体どういう事なのか・・・また、リーダーが人を奮い立たせる為にはどうすべきか?人がリーダーを信頼して信念を持って働くとはどういう事なのか・・・
一つ言えるのは、誰ひとりとして「人を感動させよう」などという作為的な気持ちは無く、むしろ秘めた思いのやり取りと「我慢」が根底にあった。そしてもう一つ、それは「個々の強烈な体験」であること。従って属人性が強く伝承が難しいジャンルであることである。また、そこには人知の及ばない何者かの大きな力が補助作用なり、添加作用として働いている場合が多い様に思う。
実に泥臭い体験を僭越ながら披露させて頂いたが、少なくとも私は非常に多くの事をこの専務から学んだものである。属人性が強いということは、実地の感動体験の反復でしか、なかなか人は育たないという事でもある。疑似体験ではだめなのである。人に匂いがない。感動が薄っぺらい。すぐ切れるし別れてしまう。我慢が足りない。人の成長を願って本気で叱ることをしない。その様なことが多い様に思う。それらはすべて「心からの感動」や「人の成長」の芽をつんでしまっているのではないか?すなわち、リーダーを育てる機会を逸してしまっている。本来、人には他の人にない華が一つあるものである。その華を活かし人に力を与えるのは、やはり全うな、掛け替えのない感動体験だろう。私はそう考えている。
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