還暦を超え初めて犬のいる生活を経験している。と言っても、ある知人からの預かり犬である。かつて哲学者の故池田晶子氏があるエッセイで「犬の力」について書かれていた。彼女の場合は大型犬だったが、晩年は犬の介護で大変苦労されている様だった。しかし、人生の伴侶と言っても過言ではない程の信頼関係を構築されていたと記憶している。そういうものかと読み流していたが、正にその一端を実感する事になった。
愛犬家は山ほどいらっしゃるので、私が何を言える訳では無い。ただ、初心者として率直に感じた事は、やはり経験してみないと分からない体験知である。うちのは、10歳の奄美大島産のチワワの雄でチワワにしてはかなり大きい。彼等自身は、様々な制約の中ではあるが、生きたい様に生きている。それでいて人に合わせ、それぞれの人々に喜びを与える能力を持っている。一つには、開けっぴろげの彼等の健気さに、我々の魂が癒されるのかも知れない。不思議な力である。
付き合っていると、その影響を受け、多くの方の人柄が柔らかくなってゆく。特に一人暮らしの方には、無くてはならない存在なのだろう。疲れて帰って来て、一日中待っている愛犬に歓待される喜びはいかばかりか、と思う。私が気になっているのは、犬が実はかなり高い知性を持っていて、確信犯で可愛く演じているのではないか?という事だ。でなければ、生きたい様に生きて見せて、かつ、様々な恩恵を人に与え続ける事は出来ないのではないか、と思う。
犬派と猫派に分かれるそうだが、猫の事は分からない。先日、伊豆の話題の愛犬お宿」に出掛けた。正にお犬様々かと思いきや、かなり愛犬家の事を考えている施設である。近く寄り添いながら、必要な時に離れられる、というサポート環境なのだ。さすがにスタッフの面々は犬好きが多く、初見でもずっと我が家の犬をいじりながら話し掛けている。
中型犬以上になると、飼い主が精神的に参っている時など、そっと寄り添い肩に手を乗せるという。ものが喋れないので、余計にグッと来ると言うのである。犬は人間の5歳程度の知能という説があるが、果たしてそうだろうか?私にはほぼ人間の言葉の真意を理解している様に思える。そればかりか、その状況から起こるであろう近未来も想像し、先回りして待っている様なところがある。余計な言葉を喋らないので尚更可愛い。言葉が操れる人間同士は、犬と愛犬家の濃密なコミュニケーションには遠く及ばないだろう。犬を飼うことで、言葉の意味と限界を考え始める。皮肉な事である。
この様な無垢の生き物を虐待する人間も存在する。そうすると、犬側は大きな不安を抱えて暮らすことになる。常態化すると、常に怯えてやつれた印象になる。子の虐待もあるのだから、致し方ないのか?やはり人は罪深いな、とも思う。
犬と人間の付き合いの歴史は長く、昔の番犬的な色彩から愛玩犬へと大きく変遷している様だ。犬は人の5倍から6倍の速度で老齢化するという。うちのは、55歳から60歳ぐらいの歳である。それにしてはよく食べるし、エサを乞うてかれこれ50cm程度はジャンプする。人より速く一生を終えると分かって飼い始めるが、逝った後はペットロスになる方が後を絶たない。矛盾に満ちているが、ストレスに満ちた人々を、無言の歓待で受け止めてくれ、人の愚痴も黙って聞いてくれる。時々、裏返ってお腹を見せ愛撫を請う。どれ程の人々がこれらの仕草に救われただろう。ある作家は、「犬は、人に愛を教える為にこの世に遣わされた」という。やはり、「犬の力」は偉大である。
最近のコメント