仕事の体幹とは何か?
実は、仕事の「体幹」を為すものは、何と言っても「言語能力」なのである。なんだ、ということかも知れない。
しかしながら、この「言語能力」を意識して真剣に鍛え上げてきた、と自信を持って言える方はなかなかいないのではなかろうか?これが訓練を必要とする非常に重要なスキルであるにも拘わらず、何故それ程ビジネス上のスキルセットとして重要視されていないのか?それは、母国語である限りある程度は「しゃべれ、読み書きできてしまう」からに他ならない。しかしながら、ビジネスに親しんで35年余り、この仕事では12年目となるが、つくづく決定的な差別化要素になる・・・と思われるのが、この「言語能力」である。「自分で仮説を立て、ものを考え、決断し、それを判り易く相手に伝える。相手はそれを理解し納得し、遣り甲斐を感ずる。他の人にもその力を伝染させ、チームとして何かを達成する。」言ってみれば、このシンプルな事にこそ大きな差が生まれてくる。これは人生にとって絶えず学び続けなければならない「体幹」的なスキルであると同時に、当然ながら、「仕事の体幹」でもある訳である。やはりリーダーは、言語を駆使し、人を揺さぶることが出来なくてはならない。下世話な言い方をすれば、「人たらし」である必要があるのである。
勿論、どんなに言語が上手くとも、その話す内容が無ければ意味がない。流暢な英語をしゃべるが内容が無い。これでは、誰も振り向いてくれない。では、その内容を磨く為には何が必要なのか?それは「教養」であろう。またなんだ・・・、ということかもしれないが、こちらは至極真面目である。「教養」とは、英語ではGeneral Artsであるが、の日本語の意味する「一般教養」の部類から、専門性の基礎としての「ものの見方」、ひいては、死生観、歴史観、宗教観を含む人生の知恵・哲学に至るまで幅広く、深い。それは、日常の仕事のやり取り、社内のコミュニケーション、役員会などでのプレゼン、セミナーの講演、パーティでの挨拶、家族や友人または愛人との会話に至るまで、あらゆる折衝や喜怒哀楽の絡む局面で、その能力のある無しは歴然とした差になってしまう。
昔、映画マイフェアレディのペプパーン役の娘が、紳士役の先生から言葉遣いや立振る舞いの徹底的な訓練を受けるシーンがあったが、言葉の躾はまず家庭環境から始まり、ひと昔まえには、母親が娘に、「美しい日本語」を嫁入り道具として持たせるのが、母親の誇りであった、と言う。日本にもかつてクラスが凛として存在し、身分により服装と言葉遣いが違った。その結果として、本来の意味でのエリートの存在があった。皆、日本語を駆使する能力を当然ながら具備していた。今、日本人は、表面的にはクラスが無く、宗教感も無い、真の意味でのエリートを輩出しにくい環境となった。その上、与えられ守られ続け平和ボケして60年、安全で幸福なのが当たり前という風潮である。誤解を恐れずに言えば、幸福な割には不幸感が強い、世界的にも類を見ない国民となってしまった感がある。
文明の進歩と反比例して精神文化の衰退、荒廃が進んでしまったとはよく言われることだが、それは諸外国も共通であり、何故、日本にかくも精神の貧困が訪れたのかは全く不思議という他はない。本を読まない、敬語がしゃべれない、受け身でぽかんと空けた頭にジャンク情報がTVやインターネットから反復情報としてインプットされ続ける。TVタレントの目に余る言語の乱れは、現在の若者達の言語の乱れに直結している。実は最近とても気に掛るのが、我々壮年や老年の人々の言語や立振る舞いの乱れである。一言で言うと、「遠慮」が無いのである。
本を読まない、文字を書かないので、複雑な概念を日本語を駆使し、その微妙なニュアンスを判り易く伝える、ということが出来ない。複雑な事が考えられない。発想が単純化する訳である。白か黒(善か悪)かをすぐつけたがる。その間の灰色の膨大な部分のニュアンスを汲み取る力がない。悪の存在の意味を全否定して、狭量な正義感で人をよってたかって非難する。
例えば、悩み苦しんでラブ・レターを書いたことが無い・・・という若者は実は最近は多いのではないか?昔は、携帯が無かったので、彼女の自宅に電話し親父が電話口に出て閉口した。(笑)電話口に出ても、人をはばかり、要件のみで手短に終わらせるのが基本であった。従って、「言葉を駆使し直接的な表現ではなく、自分の想いを如何に立体的に伝えるか」に苦労して書いたものである。かつて「源氏物語」を生んだ、かの誇り高き日本人が寂しい限りである。昔は現在と比べ、不便かもしれないが、色々と創意工夫が必要であり、不便が人を育てたのだ。
まあ、悲観的になっても仕方が無い。それではどうすれば良いのだろうか?まず、「本を読む習慣」を身につける事である。学習とは、学ぶことを繰り返すことである。習慣にならなければ意味がない。TVやインターネットからの受け身の情報と、きちんとした本の情報とでは、実は雲泥の差なのである、と識者は口を揃えている。一言で言うと、読書により、形而上の思索過程を脳内で経由し、ある考えを発酵させ、自分なりのものにまとめるという知的作業が、決定的に重要であるそうである。これを繰り返している者と、そうでない者が、十年経って歴然とした差がついてしまうのは致し方ない。特に若い人々にとって10年間は決定的な差を生じさせる。よく「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言われるが、歴史書をひも解くのは正しい読書であるのだろう。ハウツーものやビジネス書ばかり読んでいる人がいるが、それでは人間性の複雑さや人生の機微を推し量る訓練にはならない。経営者やリーダーは、間違い無く、人間性というものに対する深い洞察力が必要なのである。
それと、「ものを書く」ことである。ある考えをまとめ、起承転結に基づいてそれを書いてまとめてみる。この際、自分の事は棚にあげておくが、書いてみると意外に自分がその事象に不案内だったり、考えの基軸やロジックが不明瞭だったりした事がよく判るものである。ものを書くには「スタイル」が必要である。ファッションのスタイルではない。ある流儀が必要という意味である。(念のため)古今東西の「文章読本」があるではないか。これを参考にしない手はない。それを発表する機会があればそれに越したことはない。但し、スピーチはそれはそれでなかなか難しい特殊技術である。小職はスピーチは下手だ。ウイットと示唆に富む話を手短かに出来る才能を持つ方を時々見かけるが、本当に羨ましいと思う。外国人と付き合うチャンスの多い方々は、食事の席などでは欠かせない技術、いわゆる教養のジャンルに入るので、これは必須訓練事項だろう。
人は死期が迫った時に何を求めるか?というと、「言葉」なのだそうだ。だから書物を読み漁る。自分の生きてきた意味を探すのだという。その意味でやはり言葉は命なのだ。言語能力は、間違い無く、「仕事の体幹」である。
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