人を見る目を養わねばならぬ、と人はよく言う。
ことに我々のような仕事をしているものにとって、「どう人を見るか?」は生命線であることは間違い無い。人を見極める力が無くてこの仕事をやっているのはおかしい・・・という様なお叱りを受けることもある。
ところが、これがなかなか難しいのである。
何千人と会って来ても、本当の出会いは実はごく少ない人数である。お互いに客観的に見る、話合うことは至難のわざなのである。これはどういうことかというと、「人は見事に、自分の見たいものしか見ていない」からである。私自身を含め、自分の見えるようにしか見られない、という厳然たる事実に慄然とすることがある。偏見を持つまい、人の良いところを引き出そうとしてインタビューに臨んでいるつもりでも、ちょっとした仕草やその人特有の癖の様なものは、気になるのである。最も気になるのは、くだらない邪推をするタイプである。人品骨格と昔の人はいったものだが、こういうところに出てしまう。自分自身も疲れている時などは、こういう傾向になる危険性がある。「ああ、いけない」と思う。良いところを引き出そうとして、くだらない邪推をするなどという行為は、この仕事にはあるまじき事であろう。
いかなる賢者であろうと、その人が世界を見る見方は、その人が世界を見る見方でしかあり得ない。だからこそ、このことに気付くと、世界を見る見方が変わるのである。自分にはそう見えるが、それは自分の見方でしかない。この様に物事を「相対化」することができると発想の自由度が広がる。特に人の上に立つものは、相対化する訓練が出来ていないと、物事に対する柔軟性が失われ、あらゆる事象に過敏に反応し、結果上手くいかないことが多い。一方で、この相対化を発展させてゆくと、人の魅力とは人の欠点に繋がっている事が多いことに気付く。程度の問題なのである。逆に、すべて平均点で、どう人に見られているかを始終気にしているタイプ、所謂欠点を如何に少なくするかにかまけている人は、魅力に欠けることが多いのである。
人と会うことは面白い。だが、これをビジネスにするとなると、なかなか厳しいものがある。人格的には優れていても、特質に値する専門性がなかったり、その逆だったりするのである。また、我々が候補者と面談している時には、なんとか良いところを引き出そうと思って面談している。所謂、「汲み取って」話し合いをしている。一方で、クライアントのマネジメントと候補者との面談時には、何とか欠点を見出してやる・・・という様な不幸な面談をされてしまうことがある。我々は基本、面談に同席するので判るのである。こういう際、我々の候補者評価とクライアントの評価は大きく食い違うことがある。
ある偏見に凝り固まっていて、悪意でしか解釈できない人を時々みかける。これはそれ自体が不幸である。ある哲学者が、「人間は、いかなる場合も、自分の内なるものを自分の外に見出す、自分を他人に投影していることを忘れて、他人の方がそうなのだと思うのだ。このために、他人をそう見るその見方が、まぎれもなくその人を示すことになる。」と言っている。以前に、はっとした経験がある。品格を崩さず、Neutralなスタンスで対峙することが必要である。
人を見るというのは、大変面白いがつくづく難しい作業であると思っている。
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