表題は、あるカメラのキャッチコピーである。ある瞬間を切り取り、それを残すのがカメラの役割の様だが、むしろ、もう少し注意して日々の日常を見回して見ては如何か?、という事なのかも知れない。これはMiracles happen everyday.という英語の格言に通ずる。よく目を凝らしていると、日常の中に幾つかのの奇跡が含まれている。時間の流れは一定方向に流れてゆくので、その瞬間に気付きにくいだけである。瞬間や偶然の集積が1日であり、1年であり、人生だとも言える。
・なかなか無い偶然の上に・・・
顧客や候補者と面談しても、実は有り得ない偶然が隠されている。初見の場合は、たまたまこのタイミングでお会いし、普段は友人や会社の同僚や上司には話さないことを伺うことになる。出会いは常になかなか有り得ない偶然である。
弊社における人の採用も、現在の弊社チームの皆さんとの出会いも、何万分の一にも満たない稀有な確率の中で為されている。もう一度同じ人材を揃えてみろ、と言われても出来ないのである。これはどういうことかと言うと、辛うじて繋がってチームを結成しているだけで、少し何かがあるとすぐ壊れてしまうかも知れない関係性の中で、売上や利益を辛うじて達成しているに過ぎないということだ。まして、そういう関係性の中でこのビジネスを20年も続けて来られたのは偶然の産物としか思えない。
・真実の瞬間
よく観察してみると、日常はたわいも無い「緩み」の中に、時折「真実の瞬間」が交り合い連鎖し、螺旋状の様な構造になっている事に気付く。「そういう事もあるよねぇ」だったり、顧客や候補者から、「貴方のこんな行動を見て、私も決断する事が出来た」だったり、諦めと励ましの双方が入り混じっているのである。螺旋状と言ったのは、稀に「真実の瞬間」同士が共鳴し合う様に感ずるからである。寝しなに、走馬灯の様にその瞬間、瞬間がフラッシュバックして眠れない事もある。
クライアントのある方の口から滑り出た我々に対する批判の言葉などは、その瞬間をまざまざと覚えているものだ。また、逆にクライアントから信頼を頂き、その信頼の上に新たな顧客を紹介して頂くこともある。「頼むよ!」と言われた瞬間も記憶に新鮮に刻まれている。これらは「真実の瞬間」と言える印象的なものも、それで人生の岐路を左右する様な強烈な体験も混じり合っているものだ。
・瞬間を切り取る
上記の様な体験の瞬間を切り取る事は難しいのだが、辛うじて瞬間を切り取り、残すことができるのは、短歌や詩もあるが、やはりカメラが一般的である。かなり昔になるが、大竹省三氏の「昭和の群像」という写真集があった。当時活躍していた芸能人、政治家、経済人、スポーツマンなどをモノクロアップで撮影したものだ。この存在感に圧倒された。その被写体を正確に力強く描写していることは勿論だが、それ以上のものが抉られていた。そう、その人の歩んで来た人生である。写真家の腕にもよるだろうが、カメラとは恐ろしいものだなと思った記憶がある。ビデオやムービーではこうはいかない。私が最初にカメラと向き合ったのは、前職でカメラメーカーを担当し、クライアントから機材を勧められた40年前に遡る。無理をして一眼レフと幾つかのレンズを購入したが、持ち運びが大変なのと、豊富な機能を使いこなせず閉口した記憶がある。
素人ながら、瞬間を切り取るにはちょっとしたコツがある。被写体が構えてしまう少し前にシャッターを切るのである。大抵は構えて半歩後になってしまう。プロのカメラマンが被写体と和やかに語り合いながら、連写している光景を見るが、それは双方が慣れているから出来るのだ。ある決定的な瞬間に遭遇することは稀にあるが、その瞬間が撮れるとは限らない。偶然にも撮れた時は嬉しいものだ。そう言う意味でプロの方々はつくづく大変な仕事だなと思う。時間が出来たら撮ってみたいと思う被写体は多いが、そう言っているうちに動き回れなくなってもいけないので、さあ、どうしようかと考えている。
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