最近、小気味の良い出来事があった。サッカーの長友選手の名門インテルへの移籍である。サッカー事情に詳しい諸兄にとってはあるいは当然なニュースかもしれない。が、少なくとも私には少々驚きであった。一見、地味で小柄、もう一つ派手さに欠ける普通の日本人に見える。だが、良い顔をしている。(こんなことを書いていると、どなたかから怒られてしまうかもしれない。)以前、NHKで彼の特集が組まれていたのだが、実は学生時代から「体幹トレーニング」を徹底的に行い、90分間での世界レベルの運動量、外人の巨体にも当たり負けしない体を身に付けてきたそうである。日本人としても体躯に恵まれているとは言えない普通の選手が、どういう経緯で、地方の有力選手から日本代表に、それから世界の一流のサッカー選手に化けていったのか?という点は誠に興味深い。
どんなものにもクラスが存在する。スポーツの世界は、特に厳然として存在し、それがもろに年収の差となって跳ね返ってくる。激しい競争の中で、彼はそれぞれのクラスを短期間で飛び越えて行ったのである。イチロー選手や松坂選手の様に、日本での輝かしい実績があり、ある意味天才的なところがあるのとは、長友選手の場合は少し状況が違うのではないか、と思っている。一見、普通である。だからこそ、我々凡人にも何か示唆的なのではないか・・・
私の推測では、「内面的な資質と能力」と「外面的な資質と能力」に分けて考えてみると、前者については、多分長友選手は、若くしてかなりハイレベルな能力を有していた、と考えている。内面的な資質としての、志の高さ、たゆまぬ努力と研究心、粘り強さ、リーダシップ、サッカーに対する基本的なセンスなどである。それとご本人には悪いが、「体躯的な劣等感」・・・このコンプレックスが彼にとっては大きな原動力になったのだろうと推測される。人生、何が功を奏すか判らない。
後者の外面的な資質と能力であるが、俊敏性や運動能力に関してはかなりのレベルであり、特に、機に乗じて果敢に攻撃に転ずる素早さや発想力は、既に世界クラスだったのかもしれない。それに、「体幹トレーニング」を徹底的にやることで、90分間、フルタイムでダッシュの連続の様な事をしても疲れない身体能力を身につけた。また、体の中心の軸をぶらさないで、大きな筋肉を連動させるガード方法などを訓練し、結果的に外人の巨体に体負けしないクオーターバックの評判を取ったのだろう、と推測する。これが合っているかどうか、はこの際問題ではなく。普通の日本人がスポーツという過酷な世界で、如何に世界の一流の部類に入ったのか、が問題なのである。これが如何に希少なことか・・・
勿論、世界との差を日頃見せつけられる環境という意味で、Jリーグの発足と外人選手の登用の果たした功績は大きい。Jリーグが無かったら、今の日本のサッカーの発展は無かったというのは、もはや厳然たる事実である。残念ながら、自分も含め、日本のビジネスマンの大多数がその環境には無いといって良い。競争はグローバルに起こっていて久しく、世界の人々を相手にビジネスをしているのにである。誠に可笑しな現象である。私は常々、日本の経営者は一度すべて外人の優秀な経営者に一定期間任せてはどうだろうか?という過激な意見を持っている。その功罪は勿論あるだろう。しかしながら、皆が目のあたりにする事が重要なのである。
「お互いの違いを・・・」。
一言断っておきたいのだが、外人の優秀な経営者とは何も欧米だけではない。BRICSもアフリカも入ってくる。それぞれのバックグラウンドが違う、価値観も違う、宗教をもっている、食習慣もワークライフ・バランスも違う、祖国で待っている人々の生活水準も幸せの感覚も異なる、そういう異端を受け入れるという事である。この数十年間、戦争もない、差別も宗教も本来的な富の格差もない、世界的に非常に特殊な環境の国、日本。実は大変恵まれているのに、世界を対比してみることが極端に少ないため、「幸福感」や「やりがい」を見失っている人々が増えている感がある。「過酷な環境にない」、という事が今度は足かせとなってこれからの日本の足を引っ張っている様に見える。特に優れたリーダーが育たないのである。
ああ、話がそれてしまった・・・。
長友選手の話であった。「体幹トレーニング」との出会いは如何なるものだったのだろう?今、これはあらゆるジャンルのスポーツ選手にとって大変重要なものと認識されつつある様だが、例えば10年前はこの様な言葉も無かった筈である。彼の中・高校時代のコーチが優秀だったのか?眞偽は判らないが、「これだ!」と思い、徹底的に反復訓練をしたのだろう。このトレーニングは、比較的単純な動作の反復であり、お腹を中心とした、肩甲骨の廻り、股関節の廻りを含む表裏の大きな筋肉の強度と柔軟性の向上を図るものだそうである。退屈だが、日々少しずつ継続する事が必要で、ここが鍛えられると、上半身と下半身の力を連動させ、増幅させる効果があると言う。一部の筋肉に負担をかけず、全体の連動性を高めることでパワーアップする為、プロの選手の様に体を酷使するケースには選手生命の長短にも直接影響するらしい。実は、この様な基本的な事が最近解明されること自体、人間の体の仕組みはまだまだ未知なことが多いとも言える。
要は、「環境要因と世界とのギャップの認識」、「個人的な資質とその強みを活かしたトレーニング方法(コーチ)との出会い」、「たゆまぬ反復練習」、「自分の志を明確に持ち、信じて継続する強い意志」、そしてある意味での「コンプレックス」が、ばねとなって、このブレークスルーを生んだのだろう。多分、どれが欠けても世界の一流水準までには到達しないに違いない。あったからと言って、起こる保障などないだろうが・・・この観察が的を得ているかは判らないが、何かビジネスに酷似してはいないだろうか?
もう一つ、長友選手の話題で感銘を受けたことがある。それは、個人の努力と不思議な運命の巡り合わせにより、「思いもかけない運命の展開」というものが、いまだに健全として存在している・・・ということだ。これは誰しも努力すれば道が開かれる、という様な扁平で道徳的な事を言っているのではなく、幸不幸は別として、人の歴史とは、思いもかけない展開の連続であり、我々の現代も、その連綿としたプロセスの一部に過ぎないのだろう、という意味である。
最近の若者の就職戦線を見よ。恐ろしい程の保守化が進んでいる。有名大企業に勤めればなんとかなるだろう、という藁をもすがる心情が、学生達の顔に見事に刻まれている。人の日々の生活の安定、職業の安定、幸運に見える人への妬み、明日への不安、今後のキャリアへの不安など・・・過去から刷り込まれてしまった、「安定」や「幸せの尺度」に対する思い込みはそれほどに頑固で強烈である。しかし、振り返ってみると、人生は予測できないことの連続ではなかっただろうか?安定を志向したが、天災、病気、戦争、経済不安などが日常茶飯事の不安定の状態の連続があり、それを乗り越え今日に至っている筈である。
人生のそれぞれの転換点に、その道を選んだ仕方、何故その道を選ばなければならなかったのか?またその後の身の処し方には、色濃くその本人のキャラクターが刻印されている。これは実に驚くばかりである。昔、芥川龍之介が、「運命とは性格である」、と言ったそうである。まさにそうとしか生きられなかった瞬間、瞬間を自分で判断して生きてきた、それが人生そのものであるという意味で、この言葉は、この歳になってみると妙にしっくりくるのである。それと共に、自分ですべて判断して生きている様で、実は生かされてしまっているのではないか?という不思議な「ふわっと」した感覚も同時に感ずることが出来る。
なんだ、長友選手のブレークスルーの根本的な要素は、「性格」が良かったのか・・・(笑)
しかし、冗談ではなく、美男ではないがなかなか「良い顔」をしている彼の顔を思い浮かべていると、あながち否定出来ない様な気もするのである。
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