主題は作家曽野綾子氏のエッセイの中の一文である。簡潔な正論であると思う。昨今この様な表現が一方的に制約されたり、SNSなどで格好の攻撃対象になる。曽野氏もその弁明に労を費やされたらしい。子供の躾は勿論だが、人は老若男女を問わず、何か新しい事を始めるときには、強制から始まるのは考えてみれば当然である。碁や将棋、武道、スポーツは勿論、様々な芸能、舞踊、楽器の演奏など、初心者の自由にさせても意味がない。仕事もその性格により、全く未知の分野に乗り込む時には、経験者が初心者に強制する形を取る。そのやり方にハラスメントがあっても良い、などという話をしているのではない。しかし、受け手もそれなりの覚悟と謙虚さがあってしかるべきである。それが世の中の理(ことわり)というものだ。但し、ある程度のレベルまで上達したければ・・・或いはその道のプロとしてひとかどの人物になりたければ・・・という条件がつくのかもしれない。
戦後の教育は個性の形成、自由を行使する権利を強調した。教育は自発的にしたいことだけしかさせてはならない、と今でも信じて疑わない人がいる。ゆとり教育の影響か、運動会で敢えて一番をつくらないとか、かなりバイアスのかかった平等主義の蔓延には疑問を感じている。ある修行過程でその強制に耐えられなくなり脱落する人々も勿論存在する。それを非難したり排斥している訳では勿論ない。ただ、もう少し精進すれば「型」というものが現れ、それが身についた後に「独創性」に発展するかも知れないのに勿体ないなと思う。日本の力士が海外巡業をして非常に人気があると言う。それは彼らが「型」を身に着けているからである。
良い悪いは別として、ビジネスの世界に飛び出た途端競争社会に突入する。しかも現代ではグローバル競争の時代である。その中で基本の「型」を身に着け、「独創性」への発展により本来の日本強みを活かしてグローバルに活躍する日本人の絶対量がなくては、日本は確実に衰退の道を辿ることになる。SNSの世界の日本語の廃れ方はすざましい。国語の乱れは国力の低下を意味するとはある学者の意見である。真っ当な意見が正論として扱われず、匿名の心ない非難に晒される様な社会には先がないと思う。
最近のコメント