59歳となった。幼少の頃、思春期の頃、20台、30台の頃、この様な年齢になる自分をまったく想像出来なかった。誰もがそうではなかろうか、と思う。壮年期、まだまだ人生を振り返る様な歳ではないが、「還暦まであと一年」というのにまだ何も出来ていないな・・・というのが実感だ。しかしながら、一方で「これからどう老けてゆくのか」を、じっくりと自分なりに観察してみたい、という興味も強い。ことさら自分を卑下してみせる訳ではないが、最近、食べていて口から物をこぼしてしまう事がある。唾液量の減少で、起き抜けの朝飯はすいすい食べられない。深酒すると特にいけない。昼飯の後の1時間半ほどは酷く眠い。立って靴下が履きづらい。普通に歩いているのに、若いヒールの女性に追い抜かれてしまう事が多くなった。もの忘れは昔からだが、最近は会社でも「あの、あれだよ。あれ・・・」という調子で社員から注意されている。長時間椅子に座って立ち上がると、腰が伸びず「爺さん歩き」している自分に気付く。要は「普通に出来ていたことがしづらくなる」年齢なのである。
一方、2年程前からロードバイクを始め、チームに参加して一からスポーツバイクを学んだ。若い人には到底敵わないが、グランドフォンド八ヶ岳と富士スピードウェイ耐久レースという二つの公式大会にそれぞれ2回出場し、いずれも完走した。その様な体力、気力が残っているとは自分ながら驚いた。ドライバーの飛距離は道具の進化の為か若い時とあまり変わらない。スタントンチェイスの世界会議に出席すると、目立った白髪も少なく実際の年齢より10歳は若いとからかわれる。(外人は皆ある意味老け顔が多いのだ・・・。)パーソナル・トレーニングを受けたら、股関節と肩甲骨が広がり歩くペースが少し早くなった。
最近、ゴルフのシニア・オープンをテレビで観戦し、昔と異なり今は50台、60台の選手でも何か若い感じが残っていて、「枯れていない」シニアが多い、という事に気付いた。飛距離も若い選手とそん色無いし、人によっては若い自分よりも素敵になっている人もいる。ただ何か「生臭い」感じが付きまとい、昔の様にいい感じに「枯れて」飛距離は出なくとも技でみせる・・・という様なシニア・ツアー観戦の楽しみ方が出来なくなった。多分、自分も同じなのだろう。もう現役の中年ではないし、老年でもない。中途半端で何か生臭さが残るのである。
老年期への準備を「体」は始めようとしており、「頭」の中はまだまだ若いという感覚との葛藤がある。多分、双方が微妙に影響し合って、徐々に老年を迎えるのだろう。それは仕方がないとして、ここから、上手く粋に枯れていって「美しく老いる」方々もいた筈なのだが、生臭いままただの老人になってしまうケースも最近多い様に感ずる。昔と比べ体力年齢が若く栄養状態も良いし、何かと刺激の多い世の中だが、それなりに「分を知り、美しく老いる」という事がなかなか難しい時代になったのだろうか?確かに、昔の漫画の「いじわる婆さん」の様に言いたい事を言って、ユーモラスに少しシニカルに生きて野垂れ死にするのも一考の余地はある。そこには明らかなスタイルがある。
今年団塊世代が一斉に年金世代に移行する急速な高齢社会を迎えようとしている。どの様な生き方を選択するかは意外に重要なテーマかも知れない。その人の「生きるスタイル」に関わる微妙な問題かと思うが、どちらかと言えば前者でいきたいな、と私は思っている。何故なら、それなりの知恵と老いの美しさのある高年齢人口が増え、「ああいう、粋な老人になってみたいなあ・・・」と若者達が感ずる事が出来なければ、「逃げ切れない」ものを背負った厳しい若者世代に申し訳ない様な気がするし、そういう人口が増えればもう少し世の中全体が明るくなる様な気もする。
さて、如何にして「美しく、粋に老いる」ことが出来るのか?これは昔から一つの重要なテーマだった筈である。それに老人ならではの知恵が加わり、「賢者」と呼ばれる人々が以前には確かに存在した。最近はその様な話題よりも、「若く見せたい」「お腹周りをスリムにしたい」「顔のしみをなくし皺を伸ばしたい」とかのアンチ・エイジングの傾向が強く、少し行き過ぎではないのか?と思う。他に内面を充実させるとかいろいろとある筈だ。考えてみると、老いて死ぬ事は全く自然な事なので、その自然の摂理に必要以上に抗うよりも、それなりに自然に老いる中で「美しく、凛とした、老人になる」事に専念した方が理に適っているのは明らかである。
「人は、どの様な人も歳なりに見える」という格言がある。毎日人に会うビジネスをしていて、確かにそうだと思う。従って悪あがきしてもたかがしれている、とも言える。加えて必要以上に若く見せようとする事は時に浅ましく、それに中身が無い事が加わると最悪である。これでは若者達から多分尊敬される事はまず無いぞ、と自分を戒めている。あの「人の見た目が9割」という言葉を評して、ある作家がその「外見の美しさ」とは、容姿、節制、話し言葉(日本語の美しさ)、声の張り、センス、所作(動きの美しさ)やユーモアも含めたリズムと緊張感などを含めて言う筈である、とコメントしていた。まさにそう通りだと思う。
近所に有名な美味しいソーセージ屋さんがあり、その主人から一喝されてしまった。この11月で店を閉めるという。聞いてみると、ご夫婦70歳を迎え子供達にもなかなかこの技は引き継げないと観念し店を閉めるのである。奥様の方は元気で全く70歳には見えない。昼間のランチサービスも小売りもやっていて、双方繁盛しているのだが、朝早くからの仕込み、店のサービス、夕刻の後片づけで、家に帰るとご夫婦放心状態で何も手につかない・・・というのである。繁盛し店が軌道に乗るまでは、資金にも追われ悩まされたという。私の年齢の話をしたら、始めたのは12年前で今の自分とほぼ同年代で一念発起して店を開業したのだという。何かに躓き、50歳後半でやり直したのだろう。だから、50台後半なんて、まだまだ何でも出来ます!(人生幾らでもやり直せます!)と勇気づけられつつ叱られてしまった。「これから店を閉めた後の人生が楽しみで楽しみで・・・」と話していた。59歳から新たな意味ある仕事をし、12年間で区切りをつけられている。価値観はいろいろだが、ある意味見事な人生と言う他はない。
私にとって59歳とは、仕事や人生をもう一度見直し、虚心坦懐に自分と向き合うタイミングではないかと思う。その中で、やり残した事を一つでも区切り点までヨイショと持ち上げてゆく初年度であり、その中で次世代へ何か引き継ぐべきものがあればそれは望外の喜びと言えるであろう。そして出来れば精神的にも肉体的にも「それなりに美しく、粋に老いる」という事を目指し、その準備を始める初年度でもある様な気がしている。
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