今ほど「公衆の面前」という感覚が大勢の人の感覚から抜け落ちている時代はないのではないだろうか。以前から感じていたのだが、今の若者達にこの意味を問うても「面前ってなに?」と聞かれるのがおちだろう。正確に説明しようとすると白けてしまうのだが、「公衆の面前」とは、かなり古くから日本人の精神的支柱の一つとして尊ばれて来た言葉で、自分の知人、友人、親、兄弟などの関係者以外の人々にも一定の敬意を払って来た感覚がその背景にある。公共交通機関の中、駅の構内、皆が楽しむ公共の場、皆の買い物の場、などなどの環境下では、自分が周囲の人々を不快にする行為は当然避けるべきなのは勿論、何かで困っている人がいれば率先してお手伝いする、という様な真面目で謙虚な日本人の精神性や行動規範の様なものも包含している様に思える。
その善悪はひとまず置いておくとして、電車の中ではLineやSNSで繋がる人々とのコミュニケーションに夢中で皆8割方の人々はスマホに熱中しているか寝呆けている。電車の中の人には殆ど注意を払っていない。弱者がいれば助けるという事も、危害を与えそうな悪人らしき人々が近くに存在するかもしれないという警戒心も乏しい。自分のネットワーク内の人との関係さえ保たれていればそれで良い、という様にも見える。海外の都市では危なくて考えられない現象が日本でまかり通っている。日本の常識が世界の非常識である。これがスマホのせいだ、というのは短絡的で、日本人の精神構造や美意識、価値観がいつの頃からか、ある意味大きく劣化している現象とも見える。私見ではあるが、これは日本人の日本語能力の劣化と深く結びついている様な気がしてならない。以前にも書いたことだが、国の衰退は国語の衰退と大きく関連しているのは古今東西の識者が指摘している点である。
日本の世界的位置づけの下落が、株価、ビジネス、教育、政治とデモクラシー、社会的なダイナミズムなど様々の分野で指摘されているのは大変残念な現象ではあり、それが海外から指摘されているのも腹立たしいと思う。まずはきちんとした日本語が話せ、書け、発表できる能力を磨くことからもう一度始めたら如何だろうか?
最近のコメント