時が熟す、機が熟すという事が物事にはある様である。物事にはそれをするのに最も適切な時期があり、タイミングがある、という事である。もともと、「時熟」という言葉はハイデガーという哲学者の言葉であるらしいが、感じのある言葉だなあと最近感ずる。
中国に、「啐啄(そったく)」という古い言葉がある。私はこの言葉を何十年か前の「整体教室」で教わった。親鳥が卵の殻をつつく(啐)タイミングと、雛が殻を破って(啄)出てくるタイミングが絶妙に一致することで生命が誕生する不思議を表現している。どちらが早くても中の雛は死んでしまう為、適切な時期を知り、適切な行動を起こすことの大切さを言っている。
人間にも結婚適齢期という言葉がある様に、その大切さは良く知られている筈なのであるが、人間は傍目には分かる事も、自分の事となると全く無知な事が多いのである。これは何千年も変わらぬ真実らしい。「男盛り」「女盛り」「仕事盛り」「青春」「子育て」「人生のチャレンジ」「パートナー選び」「経営者盛り」「政治家盛り」「幸せ盛り」また、「退任」「男女の別れ」「引き際」など・・・何事も適切なタイミングがある様である。しかしながら、皮肉な事に、その盛りの真っ最中の時にこれを気付く人は大変少なく、大方はその旬な時期を過ぎてはじめて気付くものだそうである。これを「時熟の後認性」と呼ぶ。
小職も、「ああ、数年前に自分の仕事盛りがあったのだなあ・・・」とか、その時期に偶然にも新たな仕事へのチャレンジをして来たのだな・・とかを、50歳を過ぎて始めて気付き始めている。こういう仕事柄、「あの方は、今が踏ん張り時で、この試練の超え方によって彼の今後の人生は大きく変わるだろうな・・・」ということは傍目にも判るのであるが、その渦中にいる方にとっては目の前の事に精一杯で、その本質が判らないし、人からアドバイスされたとしても多くは聞く耳を持たないものなのである。
私共の候補者も長い付き合いになる方々がいらっしゃる。
例えば、12年前に初めて出会った人々の中には、既に60歳以上か、55歳前後が多く、経営者として脂の乗り切った方、既にピークを終え淡々とご自身の役割を果たしている方、後輩の指導に当たっている方、また、まだまだ世俗と枯淡の間でもがいている方など様々である。最近意識して会っている30歳半ばから後半の方々になると、まだまだ何者にもなっていない、ぼーっとした方と、何故か「こじんまりとまとまっていて」、既に人生を達観した様な「若年寄り」もおり、まさに千差万別である。これらの人々のほとんどは、何らかの「過ぎ去ってみて初めて知る」要素を、それぞれの人生で噛みしめている、ということになる。
時々、何故、あるいは何の為に人生とはこういう構造になっているのだろう・・・と考えてしまうが、一方歳を経るに従って、人生のからくりの様なものに気付く事が多くなるという面白さがある。寿命の灯が少なくなるにつれ、大自然が少しずつではあるが、人生の有り様を慈悲深く人に開示し始めているのかも知れない。その中で、「もっと賢くなれ、もっと深く考えてみよ」と言っているのだ。私情としては、自分が壮年である内に、これらのからくりや人生の琴線の様なものを、一つでも多く体験し身に付けたいものだ・・・という浅はかな希望を持っている。
人々の「仕事の転換点へのチャレンジ」が、自分の技量、内なる覚悟、気力、体力とも熟した「絶好のタイミング」と同期が取れていると、間違い無く人は必要な力を発揮する。所謂、「仕事の啐啄」である。これを少しでも我々がサポートさせて頂くことが出来れば・・・と願いつつ、この仕事を続けている。
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